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2019.08

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清軍に日本軍は勝てたか 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%95%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
>後金軍は火器への対策として戦場で下馬した
>兵士が接近して塹壕を突破し、その後に騎兵
>が突撃をかけるという戦法を編み出してお
>り、この戦いでもその作戦を取ろうとした

明軍も塹壕は一応使用していた訳だろうが
騎兵を阻止出来る深さの物では無かったのだろうか
(下馬した歩兵の突撃を火器で阻止出来無かったのは
 手銃やフランキの精度が低い故だったと言う
 事だろうか)


>続いて潘宗顔の陣を攻撃した後金軍は、下馬
>した兵によって敵の戦車を排除した後、騎兵
>の突撃を行い、潘宗顔も壊走させた。馬林・
>潘宗顔の敗報を聞いたイェヘの援軍は後金軍
>との戦いを放棄し、自国に撤退した。
 
戦車も陣地全周を覆っていたのかも知れぬが
歩兵に排除されて居る訳だろうか
(テルシオの様に
 騎兵を阻止出来る程深い塹壕でも
 掘れば良かったと言う事かも知れぬが)


>朝鮮軍の姜弘立は鳥銃(日本式鉄砲)と長槍
>で前面に防御線を展開してこれを迎え撃った
>が、大風が吹いたことによって火器の発した
>煙が巻き上がり、それに朝鮮軍が視界を奪わ
>れた隙をついて後金軍の騎兵が接近、突撃し
>て前衛を突き破った。

一応長槍での騎兵防御も考えて居た様だが
煙が巻き上がって視界を塞ぐ等と言う様な事が
有るのかだろうし
後方の指揮官は兎も角
前線の銃兵の視界は塞がって居たのかどうかだが
 
http://www.imidiot.com/ja/wiki/%E3%83%8C%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%81.html
>戦闘中に砂塵が舞い上がり、これに乗じて明
>へ奇襲をかけることが出来た事などが幸い
>し、大勝した。これはサルフの戦いと呼ばれる。

砂が舞い上がって視界が塞がれたと言う
可能性も
有る訳だろうか


http://salad.2ch.net/warhis/kako/1006/10068/1006847999.html
>ヌルハチは半数の兵を下馬させて工兵ととし
>て使い戦車の防衛線を突破し、後続の騎兵に
>よって左側中路軍を完全に壊滅させた。

塹壕を火器を避ける為に
塹壕内部に隠れた工兵が埋めた後
騎兵が突入したと言う様な事は
無いのかだが


http://miraikoro.3.pro.tok2.com/study/mekarauroko/jyuhou_to_rekishi02-05.htm
上の長篠の様な土塁・壕を築いても
ヌルハチには通用しなかったのかどうかだが
塹壕が埋められたのは
手銃の精度や発射速度の遅さが
災いしたと言う事も有るかも知れぬが
塹壕の歩兵に対し近接戦に持ち込めば
清軍も弓は使用出来ぬ訳だろうが
歩兵の近接戦能力も明は清に劣っていたと言う
事かも知れぬが


http://www.amazon.co.jp/%E9%BB%84%E5%9C%9F%E3%81%AE%E5%A4%A2%E3%80%88%E7%AC%AC1%E9%83%A8%E3%80%89%E6%98%8E%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E5%85%A5%E3%82%8A-%E4%B8%AD%E5%B6%8C-%E6%AD%A3%E8%8B%B1/dp/4061818201
>17世紀、北方からの韃靼族・清帝国の前に、
>首都北京を追われ、滅亡に瀕する明王朝。鄭
>成功の「抗清復明」に応え、三代将軍・家光
>は、明出兵を決意する。島原の乱より十年、
>野に満つ牢人二万人を集め、陣頭に立つは、
>御三家の若き公子・徳川光国。柳生十兵衛と
>由比正雪を従え、いま動乱の黄土の地へ出帆
>する。

こんな物も有るが


1647時点では実戦を経験した者は
余り残って居ないかも知れぬし
優秀な将軍等が居ても
果たして清に勝てたのかだが

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80
>光圀の学芸振興が「水戸学」を生み出して後
>世に大きな影響を与えた事は高く評価される
>べきであるが、その一方で藩財政の悪化(ひ
>いては領民への負担があり、そのため農民の
>逃散が絶えなかった。一説には光圀時代は年
>貢比率が八公二民の超重税を強いたと言われ
>る)を招き、結果的には「水戸学」が目指し
>た‘愛民’の理想からは逸脱してしまった側
>面も存在する。単純に「名君」として論じる
>事は出来ないのである。

此れでは侵攻しても住民の離反を招き得たと言う
可能性も有る訳だろうが
他の者が司令官に成った可能性も
無論有る訳だろうか


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1
島原の乱では12万投入されて居るが
実戦を1回戦っただけの兵では
何処迄戦力に成るのかどうかだが
白兵戦は兎も角
銃撃だけなら十分行えた可能性も
有る訳だろうか


明に援軍を出すとしたら
徳川光圀等では無く
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E7%B6%B1
島原の乱時の幕府軍総大将の松平信綱が
総司令官に成ったと言う可能性も有るかも知れぬが
彼は内政の為に残して
別の者が司令官に成ったと言う可能性も
有るかも知れぬが


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E5%AE%89%E3%81%AE%E5%A4%89
まあしかし家光の統治がこんな状況で
何処迄援軍は出せたのかだが
浪人を大陸に投入して
消耗させると言う事を
考えた可能性も有る訳だろうか


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E6%B0%8F%E6%94%BF%E6%A8%A9_%28%E5%8F%B0%E6%B9%BE%29
>なお鄭成功は清との戦いに際し、たびたび徳
>川幕府へ軍事的な支援を申し入れていたが、
>当時の情勢から鄭成功の勝利が難しいもので
>あると幕府側に判断され支援は実現しなかった。

もっと速く援軍要請を出していれば
勝算が有ると見做された可能性も
有る訳だろうが
日本人の混血人である鄭成功以外は
日本を危険と見做して
援軍は要請しなかったと言う
事かも知れぬし
鄭成功が実権を握った1650辺りでは
既に明に勝算は無いと見られていた訳だろうか


http://www.iris.dti.ne.jp/~poet/syosai/soturon.htm
>一方、救援要請を受けた日本側ではどうだっ
>たのか。最初の内は幕府でも真剣に討議され
>たようである。たびたびの引用だが寺尾氏の
>記述によれば、徳川御三家も乗り気でごぞっ
>て総大将をかってでたようである。おそらく
>は内外に徳川の権勢をしめし、また国内に置
>いても自己の発言力を高めたいという思惑が
>あったのではないか。家光も内々に承諾して
>いたようだ。事実はっきりとした派兵の計画
>書も残っている*17。また、徳川時代にあっ
>ても大きな勢力を保っていた薩摩島津侯は、
>長く明と親交があったこともあり、兵4万と
>武器、物資を用意しあとは大陸側の使者を待
>つのみ、と言うところまで準備を進めてい
>た。


>一見、国を挙げて旧明軍を援助しようと
>していた日本がなぜ公式には一度たりとも兵
>を送らなかったのか。それは幕府側の内情が
>物語っている。その当時は徳川幕府も興った
>ばかりでまだ盤石とは言える状態ではなかっ
>た。諸藩の配置換え、キリスト教対策やまた
>三代家光公の死去など天下未だ定まらぬ状態
>だった。このような状態では、他国、まして
>や滅んだ国家を手助けする余裕などなかった
>のである。また当時の清は飛ぶ鳥を落とす勢
>いの国で敵に回したくないという思惑もあっ
>た。南京陥落後は幕府も「救援拒否」の意向
>を決め以後は中央に届く前に長崎奉行によっ
>て救援の要請は拒否された

拒否したのは
キリスト教対策が未だ終わって居ないと考えた言う事も
有ったかも知れぬし
島原での抵抗が激しかった事も
相当影響している訳だろうか

10万も兵を割かねば成らなかった様な
島原の乱の様な物が同時多発的にでも起これば
此れに大名等も呼応して
大規模な内乱が起き得ると
考えたと言う事かも知れぬし
矢張りキリスト教対策が援軍を拒否した
最大の理由と言う事は無いのかだが


故に島原の乱が無ければ
浪人を処分すると言う名目も有る訳だろうし
援軍要請に応じていた可能性も有るかも知れぬが


>鉄人とは鉄の甲冑をまとって日本刀を持つ部
>隊である。それらは日本人と日本人のような
>格好をさせた者で構成され常に前線で戦っ
>た。まず、みたこともない武器で挑んでくる
>兵は不気味であったろうし、

鉄人等と言う呼ばれ方をしたと言う事は
明軍の甲冑装備率は余り高くは
無かったと言う事かも知れぬが


http://www.iris.dti.ne.jp/~poet/syosai/soturon.htm
>すこし鉄人に関する記述を引用してみる
>*22。「重さ五百斤(約300キロ)の石獅
>子を抱え上げさせ、それを持ち上げ練兵場を
>一周出来た者五千人を選び、鉄の甲冑、籠
>手、腰当て、頬面などのをまとわせ矢が当た
>っても通らなかった。甲冑は五色に塗られ手
>には太刀を取っていた」また「みる者はこれ
>を”神兵”と呼んだ」恐ろしく強かった事
>が想像できる。また清側の記述でもその鬼
>のような戦いぶりは賞賛を込めて書いてい
>る。この鉄人部隊にはかなり手を焼いていた
>様である。
>清の主力はもちろん騎馬隊であるが、鉄人部
>隊はその鋭い太刀で馬の足を切りまくったの
>で大いに苦戦したようだ。

当世具足に合成弓を止める様な防御力は無いだろうが
白兵戦では手を焼いたと言う事かも知れぬが
刀では無く槍を使用して居たと言う事かも
知れぬが


http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1122789087/
>フロイスの「日本史」で朝鮮で戦った明軍の
>様子が載ってるよ。
>「彼らの鉄砲は、無数の弾丸を放っても一人
>も死ななかった」とか書いてて笑える。

手銃の遠距離での精度と言うのは
ピストル並みと言う事かも知れぬし
フス教徒も至近距離で手銃を放っていた訳だろうし
明の兵も塹壕を埋めている兵に
戦車を盾にして
近距離で手銃を放てばだろうが
戦車の位置が壕から離れていたから
無理だったと言う可能性も
有るだろうか
(或いは戦車を越えようとする敵を阻止する 
 歩兵の戦闘力が低かったと言う事も
 有るかも知れぬが)


騎兵が下馬して突入して来たと言うから
歩兵が此れを阻止するのは難しかったと言う事かも知れぬし
明側も騎兵の援護が必要だったと言う事かも知れぬが


>祖承訓が朝鮮に連れてきた騎兵は重装甲で日
>本の槍や刀が通じなかったらしいが。

>裏に黒鉄をつけた道服のようなものというの
>は恐らく綿甲だろう。


ブリガンダインの様な鉄甲は
騎兵以外でも多用されて居た訳だろうし
此れを刀で切るのは無理だろうが
札鎧であるから打撃は何処迄止まるのかだろうし
管槍では貫通していた可能性も有る訳だろうか

故に他のタイプの綿甲等の鎧は
刀や槍で斬られていたと言う
事かも知れぬが


>およそ二万名の槍兵(ピケーロ)
>と火縄銃手(アルカブセーロ)がラッパと太
>鼓の音にあわせてじつに機敏に行動した。ま
>ず合図と同時に
>進軍隊形をつくり、つぎの合図では密集隊形
>となり、そのつぎの合図では火縄銃隊が本隊
>から散開して
>整然と射撃をおこない、ふたたびもとの位置
>にもどった。これが終了すると槍隊が散開し
>てまことに巧妙に

>目標に襲いかかった。その有様を見てエスパ
>ニャ人たちは、この軍隊が世界のどの軍隊よ
>りも優秀であり、
>もしもかれらの士気が旺盛で、その訓練と兵
>員数と同様に優っているならば、容易に全世
>界を征服する
>ことができるであろう、とおもったほどであ
>る。

明軍も銃の精度は兎も角槍兵は
訓練されて居たと言う事かも知れぬが


日本刀で分厚い雑誌を切っている動画が
何処かに有っただろうし
綿甲もクリーンヒットすれば
切れると言う事かも知れぬが


http://depts.washington.edu/silkroad/museums/ubhist/qing.html
モンゴルや清等の鎧の
ブーツの中にも札鎧は一応
有った様だが
(明もこのタイプの鎧は
 用いて居た訳だろうが)
打撃には脆いタイプの物だろうか


http://www3.uakron.edu/worldciv/china/MVC-753S.JPG
胴体や脚等にスペースを設けているのは
矢を防ぐ為だろうが
胸部にはスペースは無い訳だろうか
(銃弾相手にスペースを設けても
 余り効果は無いかも知れぬが)


http://homepage2.nifty.com/kousyuryu-kisya/kachukishakou/ss04.html
胴体或いは頭部は
大鎧や袖付きの胴丸の方が
頭部や胴体とのスペースを考えれば
防御力は高いかも知れぬが


http://www3.uakron.edu/worldciv/china/MVC-753S.JPG
当世具足も胴丸よりは
機動力重視の鎧だろうし
手足の防御は篠や鎖を用いて
軽量化されて居る訳だろうから
防御力は上の鎧の方が有るだろうが
(胴体や兜・袖部に関しては
 当世具足の方が防御力は
 打撃に対しては上だろうが)
上の鎧の重量と言うのは
可也の物なのだろうか
(或いは可也薄い鉄を用いて居る可能性も
 有る訳だろうか)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%A1%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BC
所謂ラメラーアーマよりは
ブリガンダインの方が穴は空いて居ないので
槍は貫通し難いだろうが
(まあ只貫通せず共打撃でダメージは 
 可也受けるかも知れぬし
 プレートや桶側胴の様に
 板を一体化した上で滑らせると言う事も
 必用である訳だろうか)
ブリガンダインの原型は
モンゴルが考えたのかどうかだが
満州族等の可能性も有るのだろうか


http://kagiya.rakurakuhp.net/i_216531.htm
>極端にいえば日本での「長柄鑓の役割」と
>は、技術のいらない「弓」であり、消耗しな
>い「矢」であったわけです。ですから、持ち
>運べる限り長ければ長いほど良いことになり
>ます。それは投擲兵器の代替物だからです。
>殺傷できれば最善でしょうが、無理に敵兵を
>殺傷する必要などありません。敵に面を上げ
>させず煩がられ隊伍を乱し戦列を崩すことが
>できればよいのです。敵を突き殺す必要など
>は更々ありません。つまり、長柄鑓は連発拳
>銃(ピストル)と同じ役割を果たしていたわ
>けです。そうなりましたら、直後に控えた下
>馬した武士の持鑓隊(竜騎兵)が、足軽長柄
>鑓隊を超越して突撃して白兵戦に及ぶわけで
>す。

パイク兵で敵を崩してから
精鋭のハルバード兵が突入する
スイス傭兵の様な戦術だったと言う事だろうか


>鑓足軽までも羽織だけであるということは、
>武将たちが鑓や弾丸から身を守るためにまと
>った当世具足とは異なります。当世具足は胴
>丸が変化したもので、槍の防禦に重点をおい
>て作られていますが、武士の主要武器が弓矢>から長刀などを経て鑓に変わったことによる
>ものです。

鉄砲足軽・槍足軽は陣笠しか無かったのかだが
騎馬武者は流石に装甲は装備して居るだろうが
徒歩武者はどうだったのだろうか
(鉄砲の射手や弓の射手等の
 高度な技術を持った人間も
 装甲は有った可能性は有るだうか)


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E8%BB%BD
>戦国期の足軽は非常に重装備であり、大型の
>手盾をもたないことを除けば重装歩兵とも比
>較できる装備を整えていた(ただし、後期に
>なると一部足軽は足軽胴を着用せず、代わり
>に羽織を用いるようになる)。

足軽が軽装化されたのは
後期と言う事だろうし
全部が軽装化された訳でも
無い訳だろうか

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