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秀吉による朝鮮役の軍事分析 

http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/army/1179749016/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
>本土から釜山までの海路の補給は維持していたが、釜山から漢城までの陸路の治安が悪化して食糧などの補給が滞りがちであったため、

まあ陸上輸送は避けて
海上輸送に徹すれば良かったと言う
事かも知れぬが
本国からの食料だけで15万の兵力を
何年も維持するのは
限度も有ると言う事かも知れぬが

モンゴルの様に徹底的に進撃して
食料を調達と言う方向も有るだろうし
焦土戦術の様な事をやられなければだろうか

弾薬は海上輸送
食料は現地調達で
出来るだけ早期に進軍と言う方向も
有ったかも知れぬが
防寒装備等も必要な訳だろうか


http://www.rekishi.info/forum/forum100/20050911173204.html
>もちろん当然日本側がこうした状況を傍観していたわけではありません。文禄慶長の役で日本軍が構築した日本式の城郭を「倭城」と呼びますが、倭城の分布を地図上に落としてみると朝鮮の沿岸部を埋め尽くしているのに驚かされます。
>日本側は朝鮮水軍の攻撃発起点からの距離が短いことに目を付け、また水軍の泊地に近い浦々が朝鮮水軍に利用されることを防ぐために、船団が停泊可能な箇所の殆どに陣地を築城し、その利用を阻んだわけです。
>近代戦の「制海権」という言葉をこの闘いに使うことはできません。陸上が押さえられると必然的に水軍の活動が封じられるわけなのです。

停泊地への奇襲はこの様な手で
後には封じられていた訳だろうか



>李舜臣との接触後、日本水軍は脇坂安治の独走等、指揮系統の混乱から立て続けに敗北を喫し、泊地の奥深く逃げ込むことになります。
>泊地に大型船を並べて「大筒」「大鉄炮」を装備し砲撃で敵を近づけないようにする一方、陸上にも「鉄炮塚」を築いて海上の朝鮮船団を射撃する体制をとるのです。
>一見すると消極的な戦術にも見えますが、これは大型船に装備した大砲で、焼き討ちをかけてくる敵船を迎撃するという、大坂木津川河口での九鬼水軍の戦闘を思い起こさせるものです。
>今度は陸上砲台の援護も得られます。この戦術は有効に機能したようで、泊地内に侵入した李舜臣は果敢に戦闘を挑みますが、誤って座礁し日本側に焼かれかける船が出るなど、被害が増大し、
>目立った戦果があげられなくなります。
>現存する大型の火縄銃(大鉄炮や置き筒)と呼ばれるものには長大な射程(300~1,000m)を有するものが存在し、遠距離用の照準装置(ややこしいですがこれも「やぐら」と言います。)も発達していました。
>当時の記録には本国に鉄炮とこの「やぐら」を送れといった命令を発したものが見られます。
>こうした大型銃は船体破壊こそできないものの、朝鮮の火砲より命中精度と射程、可搬性に優れ、安定性の高い停泊中の大型船や地上で使用すれば、高い命中精度を持つ文字通りの「アウトレンジ攻撃」が可能になります。
>朝鮮側の銃砲や火箭が破壊力はともかく命中精度や有効射程が日本側の銃砲よりも劣ることを考えれば、泊地奥の日本船に火箭や砲弾の有効打を浴びせるべく近づくと、
>船体はともかく、船上の兵士の損害が必然的に大きくなることが予想されるわけですが、記録を見ても朝鮮水軍は指揮官を含め多くの死傷者を出していますし、舜臣自身銃撃を受けています。


まあ通説とは異なり
序盤以外は日本側の方が火矢の射程外からの
遠距離砲戦に徹していたと言う
事かも知れぬが



>16日の記録(舜臣は水軍の壊滅をまだ知らない。)軍船の漕ぎ手で、戦闘から逃げてきた世男(奴隷身分)の言ったこととして
>「(略)闘おうとしたが、倭船は散り散りになって回避し捕縛することが出来なかった。

>現存する大型の火縄銃(大鉄炮や置き筒)と呼ばれるものには長大な射程(300~1,000m)を有するものが存在し、遠距離用の照準装置(ややこしいですがこれも「やぐら」と言います。)も発達していました。
>当時の記録には本国に鉄炮とこの「やぐら」を送れといった命令を発したものが見られます。こうした大型銃は船体破壊こそできないものの、
>朝鮮の火砲より命中精度と射程、可搬性に優れ、安定性の高い停泊中の大型船や地上で使用すれば、高い命中精度を持つ文字通りの「アウトレンジ攻撃」が可能になります。


アルマダ海戦の様に日本側は火矢の射程外から
速力の有る小型船で砲撃戦に徹したと言う事は
無いのかだが


>ここで日本水軍は朝鮮の軍船に近づいては離れ、近づいては離れるという戦術をとったようです。朝鮮水軍はこれを追撃しますが、陣形が乱れ、艦隊は四散(沖合でのこの状況は、
>亀船を含め朝鮮水軍の軍船の特質を考える上で示唆的です(後述))。

此れは正にアルマダ海戦の序盤に似た様な
展開だろうが
朝鮮軍もスペインの様に日本船を深追いせず
陣形を保持すると言う事は
考えなかったのかだが
銃撃で遠距離からダメージを受け続けただけかも
知れぬが



>船が大型なこと、潮流を利用したこともあって、日本側の接舷切り込みを防ぎ、日本側の主将藤堂高虎が負傷、多数の戦死者をださせるとともに、
>日本船数隻が沈没、日本側の攻撃を防ぎきります。日が落ち、日本側の攻撃の手がゆるむと、脅しの火砲を発射、帆をはって水域奥に退き戦闘は終結します。
>日本側は損害が大きかったこと、また水路に不案内なため、追撃をあきらめます。残敵掃討戦は失敗しました。

此れは接近戦をやろうとしたが
潮流を利用して上手く逃げられ
火矢でやられたと言う事かも知れぬし
遠距離からの砲撃戦に徹して居ればだろうか


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2%E6%A2%81%E6%B5%B7%E6%88%A6
露梁海戦では
日本側は輸送船を流用していたので
砲撃戦等は無理だったと言う事かも
知れぬが



>鉄の砲弾を撃ち合うだけで火箭を用いない当時のヨーロッパの海戦において、鉄貼りの装甲がほとんど何の意味も成さないからでしょう。

欧州が火矢を使用しないのは
船を奪い合う海賊戦法しか無いからなのか
どうかだが


>また、この頃から日本側の火箭対策が目に付くようになります。九鬼の御座船日本丸は、釜山の泊地が襲われたときは、火箭対策に不燃性の絹布の幕を二重三重に張り(前述したように、
>これは甲板上に待機する銃兵を火箭の火から守るためのものでしょう)、舷側には突き刺さった棒火矢・火箭をたたき落とせるように、縄で縛った丸太や切り株を下げていたといいます。
>棒火矢が命中したときは、これを落として火矢を海中に叩き落とすわけです(これは鉄板装甲していれば無用の装備です。この点、九鬼の日本丸には、
>毛利水軍と闘った安宅船のような鉄張り装甲は無かったと考えられす。)。

この様な火矢対策は
毛利には有ったのか
どうかだが


>朝鮮出兵時、多くの安宅船が鉄板装甲されていた証拠は散見されます。
>たしか宣教師ロドリゲスの記録にも多くの船が鉄板で覆われていた旨の記載があります。

>朝鮮出兵前後、軍船の鉄板装甲は相当一般的なものだったと考えてよいでしょう。
>鉄板貼りは、信長の鉄甲船に言われるように、焙烙火矢対策と考えられます。「焙烙火矢」には多く誤解がありますが、手投げ弾ではなく、
>焼夷薬をつけた火矢、あるいは小形の火砲から射出される火箭と考えるべきでしょう。実際朝鮮の役に際して、朝鮮の軍船が射出するのは多くがこの火砲から射出される火箭でした
>(宇都宮氏の家臣が残した「高麗陣中日誌」他参照)。朝鮮水軍の最も得意な戦法だったと考えて良いと思います。

主力の小型艦は鉄板等有るのかだが
鉄を張った大型艦艇の一部は
朝鮮側の火矢は通用しなかったと言う
事だろうか
(日本側の火矢は亀甲船も含めて
 有効だった訳だろうか)

まあしかし大型艦は砲撃は兎も角
体当たりでやられたと言う可能性は有るだろうが
板屋船も日本の小型艦相手に
何処迄体当たりが
可能だったのかだが
日本側の旗艦である
大型の日本丸等が体当たりでやられたと言う記述は
無いだろうか


大型艦が体当たりでやられる前に
小型艦が敵艦を白兵戦等で仕留めたか
大型艦の銃撃で動きを鈍らせて
回避したと言う様な可能性も
有る訳だろうか

日本丸も砲撃は受けたが
体当たりは受けて居ないのは
銃撃で相手の動きが鈍っていた故と言う
可能性も有るかも知れぬし
小型艦艇に阻止されていたと言う可能性も
有る訳だろうか


板屋船にも楼閣は確か有るだろうし
この部分から下に弓を撃たれれば
厄介かも知れぬが
大鉄砲の防弾能力は無い訳だろうし
此れが銃撃で沈黙すれば上方からの射撃は
困難と成る訳だろうか
(小型の関船等は櫓から弓を撃たれても
 低いので厄介だったかも知れぬが
 大型銃の射程の方が上と言う事かも
 知れぬが)


http://jbbs.joins.com/content.asp?board_idx=1355&page=1&tb_name=m_discuss1
この絵は明治以降の物かも知れぬが
小型船ではこの様に上から矢を射込まれると不利かも知れぬが
実際は盾を構えて居たのかどうかだが
(他にも大型銃で船を貫いて
 援護は出来るかも知れぬが)
朝鮮側の甲冑は此れしか資料が無かったから
1種類しか無いと言う
事かも知れぬし
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/gallery/moukoshurai/index.html
上の蒙古襲来絵詞を見ると
綿甲の様な物も多いし
1種類しか甲冑が無いと言う事では
矢張り無いと言う事かも知れぬが


http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&page=2&nid=73973
朝鮮の鎧も綿甲以外は
鋲を綿や皮に打ったのでは無く
ブリガンダインと同様に裏に鉄板は有る訳だろうが
一番多用されたと言う
桶川胴に比べたら鉄板が一体化されて居らぬ分
打撃には弱い訳だろうか
(この段階では当世具足・桶側胴は
 可也普及して居たと言う可能性も
 有るかも知れぬが
 札鎧や最上胴等が未だ多かったと言う可能性も
 有るだろうが
 http://www.chiba-muse.or.jp/SONAN/kikaku/yoroi/sub0003.htm
 室町後期から桶側胴が出て居るなら
 安土桃山時代の末期には
 此れが主流と成って居る可能性は
 有るだろうか)


毛利軍の大鉄砲で
信長の鉄甲船は貫通出来ただろうし
鉄甲船の大砲の命中率や発射速度にも
疑問は有る訳だろうし
毛利軍は信長側の火矢で一方的に
船を燃やされて退却したと言う事かも知れぬが
(上方からの弓や小型銃の銃撃でも
 可也ダメージを受けたかも知れぬが)


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E8%88%9C%E8%87%A3
>これらは1593年からの日本本土からの補給作戦の開始と主力軍の南部への布陣で解消されており、準備を整えた慶長の役の侵攻作戦では補給の破綻は起きていないとしている。

まあしかし南部に布陣していたから
海路のみで補給が続いたと言う事は無いのかだが
海上ルートのみに補給を絞れば
長距離でも何とか成ったと言う事は
無いのかだが

まあしかし補給が有るのに
何故北上しなかったのかだが
慶長の役では朝鮮南部の割譲が目的と成ったが故に
攻勢には出なかったと言う事なのだろうか
(割譲が認められた場合再度の侵攻は
 有り得たのかどうかだが)


明・朝鮮軍も数万ー十万以上の損害を被っているし
日本側が南部で長期に守りに徹していたら
事実上壊滅し
朝鮮南部割譲所か明本国迄やられたと言う可能性も
有る訳だろうか

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