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長崎で国内初の列福式 江戸期の殉教188人「福者」に 

http://www.nikkei.co.jp/news/main/im20081124SSXKB017524112008.html
まあ彼等がスペイン等の日本侵略の尖兵として
利用されていたと言う意見も有るだろうし
仏教寺院等を破壊したと言う様な事は
考慮されているのかどうかだが

コメント

まあ福者に「列させてやる」側にしては邪教である日本の仏教寺院
を壊したことなどどうでもいいというか、むしろ福すべきことなのかだ
ろうし(苦笑

http://ryotaroneko.ti-da.net/e2109019.html
そもそも織田信長はキリスト教を一度も禁じていないし、
むしろ南蛮文化を学ぶために積極的にバテレンの宣教師と交流した。
豊臣秀吉も当初は同じだった。

ではなぜ秀吉はキリスト教を禁じたのか?

「九州御動座記」には九州平定のために博多に降りた秀吉は、
キリシタン大名とイエズス会宣教師達のあまりにも酷い、
住民弾圧と寺社破壊を目の当たりにするのだ。

キリシタン大名達はヴァリニャーノ神父と結託し、
ポルトガルから鉄砲に使う火薬の材料と交換に、
領地の若い男女を奴隷としてイエズス会に差し出していた。

さらにキリシタン大名は自分の領地の神社や寺の神主、僧侶に対し、
キリスト教への改宗を強制した。それに従わないものは殺すか、拷問にかけ、
神社や寺は焼き捨てた。それは一般住民に対しても同様だった。

こういった事実を見た秀吉は1587年にイエズス会のコレーリョ神父に、
日本人の奴隷売買を禁じる書簡を送っている。翌年にバテレン追放令をだし、
1596年ついにポルトガル国王は日本人奴隷の売買禁止令を出した。
同年土佐沖のスペイン商船サント・フェリーペ号事件で、
キリスト教とスペイン・ポルトガルの侵略がセットであることが明白になる。

だからオランダとは交易を許した。
オランダはキリスト教布教には関心が無く、貿易という商売のみ熱心だった。
また明・清国そして朝鮮、薩摩を通じて琉球とは交易していた。
東南アジアとはオランダを介して交易していた。
この時代これだけの地域と交易していれば、鎖国とはいわないのだ。
教科書の鎖国の記述は改めるべきだろう。

まあキリシタン大名等がスペイン等と結託して
こんな事をやったら
キリスト教に警戒感を抱くのも
仕方は無かったと言う事は無いのか
どうかだが

http://www.pauline.or.jp/historyofchurches/history04.php
>家康は、有馬晴信に命じてペッソア
>を召喚させようとしましたが、ペッ
>ソアはこれに応ぜずデウス号に乗り
>込み出帆しようとしました。これに
>対し、有馬晴信は、長谷川左兵衛ら
>とデウス号を包囲攻撃し、4日目にデ
>ウス号は沈没しました。

>この事件の当事者がキリシタンであ
>ったため、これまでキリシタンを黙
>認していた家康も、このまま放置す
>る事はできないと感じたに違いあり
>ません。

>岡本大八事件の後、キリスト教禁止
>を表明し、その摘発を行いました。

家康もこの事件が起きた後で
キリスト教排除を行っているから
単にキリスト教勢力が拡大したからと言う理由で
排除した訳では無い訳だろうか

http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=949&forum=8&post_id=39734
http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/rekiji.htm#sanferi-pe
サン・フェーリペ号事件・・・1596(慶長)1年マニラからメキシコへ
向かうスペイン船サン・フェリーペ号が土佐(高知県)に漂着しまし
た。秀吉が積み荷を没収して取り調べをさせましたがその時、
船員が「スペイン国王は外国で布教をした上で軍隊を送って国土
を広げる」という話をしました。これを聞いた秀吉は驚いて近畿
地方の宣教師、信者ら二十六人を捕えて長崎に送って処刑した
事件です。(二十六聖人殉教事件)

二十六聖人殉教事件はサン・フェリーペ号の航海士持っていた
布教と軍隊で侵略する書面を見て驚いた秀吉は処刑したという。
この事件は捜せば詳細はあります。日本人の信者が多い。

26聖人の処刑と言うのも
この様な書面が見付からなければ
有ったのかと言う事だろうか

http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/5a197e856586baf726f6a0e68942b400/?ymd=200601&st=0
>以上秀吉からの五つの詰問にたいする、コエリヨの反応は極めて傲慢で、狡猪な、高をくくった返答でした。
>高山右近を初め多くのキリシタン大名たちはコエリヨを牽制しましたが、彼は彼らの制止を聞き入れず、反って長崎と茂木の要塞を強化し、武器・弾薬を増強し、フイリピンのスペイン総督に援軍を要請しました。
>これは先に巡察使ヴァリニヤーノがコエリヨに命じておいたことでした。しかし、かれらの頼みとする高山右近が失脚し、長崎が秀吉に接収されるという情勢の変化を見てヴァリニヤーノは、
>戦闘準備を秀吉に知られないうちに急遽解除しました。

スペイン軍も長崎を取られただけで
日本に勝てないようなレベルの兵力しか
フィリピンには居なかったのだろうか
(長崎を占領されず共
 遅発式火縄銃を装備し
 重騎兵も無い様なスペイン軍には日本軍に勝算は無く
 船も大筒の焙烙火矢でアウトレンジされ
 燃やされたと言う可能性も有る訳だろうか)

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