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2019.08

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蔚山城攻防戦では明・朝鮮軍が寒さでやられたと言うが 

http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/army/1208168005
>現住農民が冬を越せるぐらい、日本軍も越せたろうよ。
>そして、何で蔚山へ攻め寄せた明人と朝鮮人は凍えた
>か考えよう?

日本軍以上の防寒装備は有る筈だが
何故やられたのかだが
仮設小屋や
テント等は使っていたのだろうか

日本軍は蔚山城の建設作業員が防寒用に入る
仮設小屋を利用して
寒さを凌いでいたと言う可能性も有る訳だろうが
薪の備蓄は多少は有っただろうが
足りたのかどうかだが


明・朝鮮軍も日本軍と異なり防寒用の小屋が無かったから
やられたと言う可能性も有るだろうが
テント位は無かったのかどうかだが
テントでは小屋に比べ防寒能力が
低かったという事かも知れぬし
数も有ったのかどうかだが


http://blogs.dion.ne.jp/sekisindho/archives/2932296.html
>「典韋」の印象深いのは、上述のような武勇にもあるのですが、一番心引かれるのは曹操の護衛をまっとうするその態度にあります。
>なにしろ一日中曹操の側に侍立し、夜も自分の寝所に行くことはまれで、曹操の天幕の近くで寝て、無駄なことは喋らず、自分を認めてくれた曹操に対し、その自信と誇りだけで忠節を尽くした点に興味をおぼえるわけです。

と有るから
明軍は天幕を利用していた可能性も有る訳だろうか


明・朝鮮軍も蔚山城付近の市街地に駐留して
寒さを凌ぐと言うのは
無理だったのかどうかだが


http://blog.goo.ne.jp/morimorikids/e/2612d85aca2537cc988d35f7f59b078e
>上杉謙信は、たとえ一夜の野陣でも陣小屋を造らせたといいます。柵や奥番衆により防御された陣の中央に大将と近臣の居所があり、
>その周りに足軽、中間などの下級武士団が取り囲む構造になっていました。斎場山は、南北が急峻な斜面なので防御がし易かったと思います。
>陣場平はそれに比べるとより強固に周りを固める必要があったと思われます。

>小幡景憲彩色の『河中島合戰圖』には、陣場平辺りに、謙信公御陣所として立派な社殿のような建物が七つほど描かれています。当時の戦では、陣城、或いは陣小屋を設営するのが常道だったそうで、
>材料も運んだそうですが、また一方で陣小屋や陣城を造るために、乱取りが行われたわけです。時には地元の農民の家を壊し、それを陣小屋の材料にするわけです。

日本軍は野戦では陣小屋を利用していた様だが
全兵士が入れる様な物だったのかどうかだが


http://toshi1.civil.saga-u.ac.jp/mishiman/03_lecture/T_HistoryUD/9_Edo/9_print1.pdf
上を見る限り一応足軽用の陣小屋も有る様だが
殆ど板と柱を組み合わせただけの
軽量な代物である訳だろうが
テントよりは恐らく防寒性は有る訳だろうか



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%9A%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
>突貫工事の後、40日程で蔚山倭城の完成が目前になると、築城が担当であった毛利秀元らは兵糧・武具類を釜山に輸送し一旦退去。浅野幸長・太田一吉らがわずか3,000の兵で城外の仮営に駐屯していた。

この施設は5万の明・朝鮮軍は3000人しか入れないので
余り使えなかったと言う事かも知れぬが
城外に作業員が泊まる家屋は無かったのかどうかだが

この3000の一部が作業員を兼ねていた可能性も
有る訳だろうが
完成が目前だったとしても
彼等しか作業には使わなかったのかどうかだが

作業員は城外の家屋のみを利用し
城内の家屋は作業員が利用する物では無く
後で兵士が利用する物が一部完成していた可能性は有るだろうが
3000人分は有ったのかどうかだが

城外・城内の小屋・建築物と言うのも
日本本土で使われる物より
防寒は考慮していた可能性は無いのか
どうかだが

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