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2017.10

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ワーテルローで仏軍が勝てた可能性は 

http://blogs.yahoo.co.jp/edo_gongu/39894020.html
ナポレオンが倒れたのが
ワーテルローの敗因と言う意見も有るが
此れは事実なのかどうかだが


ワーテルローでもネイが歩兵と連携して
突撃していれば
英軍はプロイセン軍到着前に
壊滅した可能性は無いのかだが
歩兵の質の問題も有るだろうが
英歩兵方陣も質の低い歩兵の攻撃で
一部が崩れれば騎兵にやられたと言う
可能性も有る訳だろうか


敗走したプロイセン軍の騎兵は
どう成って居たのかだが
英の騎兵もポーランド騎兵の攻撃等で
可也の打撃を受けていたなら
英歩兵を少数の騎兵で
方陣を作らせて足止めして居る間に
(方陣も騎兵を警戒しつつ
 迅速な移動を行うのは矢張り
 困難かも知れぬが)
プロイセン軍に兵力を集中させると言う様な
方向も有ったかも知れぬし
プロイセン軍騎兵が壊滅していれば
逆でも良かった訳だろうか





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参考文献:waterloo osprey



waterloo
napoleon osprey
ナポレオン
napoleon


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ロシア戦役敗北後にナポレオンが同盟軍に勝てた可能性は 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%97%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%92%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
ライプツィヒの戦いで同盟軍が100万も居たとは
知らなかったが
各個撃破できる可能性は
有った訳だろうか


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E6%88%A6%E4%BA%89
>ナポレオンへ皇后マリー・ルイーズを嫁がせていたオーストリアは停戦を仲介するが、和平交渉は決裂。

タレーランが居れば或いは
正統主義等を唱えて仏は
助かったと言う事は無いのかだろうし
再反撃の機会も有ったかも
知れぬが


>ロシア・オーストリア・プロイセン・スウェーデン連合軍はトラーヒェンブルク・プランを採用し、ナポレオン本隊との正面衝突を避け、部下の部隊との会戦を志向する戦略を取った。

まあナポレオン本隊と戦ったら
或いは負けて居たと言う
事かも知れぬし
上手く別働隊を囮にして
本隊が各個撃破を
出来なかったのかだが


>ナポレオンは、「マリー・ルイーズ兵」と揶揄された未熟練の若い新兵たちを率いて、局地的な戦闘でたびたび勝利を収めた。
>例えば、2月10日から14日にかけての六日間の戦役(五日間の戦役とも)と呼ばれる戦いは、ナポレオンの戦歴の中で最高の作戦であったと評価する見方も多い。
>ナポレオンは、シャンパーニュへ侵攻した10万のブリュッヘル軍に対して、4万の兵力をもって機動作戦を展開し、これを打ち破っている。

まあ矢張り地の利と言うのが
有った訳だろうし
ドイツ等無視して最初から本土で
戦っていればと言う事かも
知れぬが


>3月9日、イギリスの主導により同盟諸国はショーモン条約を締結し、1791年当時の国境の回復を条件に停戦を提案したが、ナポレオンは拒否した。

まあ此所で停戦して時間を稼ぐと言う
手も有ったのかも知れぬが
ナポレオンは停戦せず共勝算が有ると
考えて居たのかどうかだが





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参考文献:タレーラン



Talleyrand



Metternich



ナポレオン
napoleon
ナポレオン 外交

ナポレオンがロシアに勝てた可能性は 

http://ja.wikipedia.org/wiki/1812%E5%B9%B4%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E6%88%A6%E5%BD%B9
>9月7日のボロディノの戦いはナポレオン戦争では1日の戦闘では最も凄惨なものとなり、もしかしたら人類史上特筆に価するものかもしれない。

と有るが

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%AD%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
>戦いの日にナポレオンは高熱に冒されていた。このことが、この日のナポレオンの指揮の不徹底さや作戦計画の単調さの理由であるとも言われる。

此れが無ければロシア軍を
壊滅させられた可能性も
有る訳だろうか


>戦闘開始前、ダヴーはロシア軍の左翼を南から迂回する作戦案を提言したが、ナポレオンはロシア軍左翼への正面攻撃を命じた。

ダヴーの作戦を採っていれば
ロシア軍は壊滅していたと言う
可能性は無いのかだが


>ミュラはナポレオンに対して親衛隊を増援に投入するよう要請したが、この日決断力を欠いていたナポレオンは要請を拒否した。

等と言う事も有る様だが
熱が原因と言うより
ロシアを侮っていたと言う事は
無いのかだが


>敵の首都を(当時のロシアの実際の首都はサンクト・ペテルブルクであったが)

サンクト・ペテルブルグを焦土にするのか
どうかだろうし
こちらを先に攻略していればかも
知れぬが


>ナポレオンは後に次のようなことを指摘している。「あれより2週間早くモスクワを発っていれば、タルティノ近郊に布陣するクトゥーゾフ軍を撃破できたであろう」と。

まあ矢張りゲリラ戦の恐れも有るのに
何故直ぐに退却しなかったのかだろうし
寒さに耐えられないと判断した段階で
もっと速やかに撤退は
出来なかったのかだが


>1812年12月初め、ナポレオンはマレー将軍がフランスでクーデターを起こしたことを知った。部隊が橇で帰宅することを禁じてミュラ元帥に後事を託して帰国した。

クーデターが起きずナポレオンが
直接指揮をしていれば
或いは勝てたと言う事は無いのかだが
ナポレオン抜きでは
勝てないと判断すれば即時撤退と言う
方向も有ったかも知れぬが






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参考文献:napoleon russia



napoleon
ナポレオン
napoleon osprey

英やプロイセンがナポレオン侵攻後のロシアを攻めなかった理由は 

まあナポレオンのロシア侵攻で
ロシアも50万程度の兵は死んだ訳だろうし
焦土戦術で経済基盤も
可也の打撃を受けた訳だろうから
英やプロイセン等はナポレオンを倒した後
ロシアを攻めようとは
考えなかったのだろうか
(ナポレオンが居る内は
 危険なナポレオンを叩く事を
 優先したと言う事かも知れぬが
 ナポレオン失脚後は
 ロシアに攻め込めなかったのか
 どうかだが
 ナポレオンが負けたロシアを
 恐れて居たと言う可能性も
 有るのかも知れぬし
 モルトケも恐れた
 コサック騎兵等も健在だったと言う
 事かも知れぬが)






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参考文献:タレーラン



ナポレオン
ナポレオン 外交



ナポレオンの歩兵は騎兵突撃を防げたか 

まあナポレオンオーダーミックス陣の
雑兵主体の縦隊は
方陣を組んで騎兵を防御可能なのかだが
仏も騎兵が強いから
雑兵に騎兵を突入されたと言う事は
無かったのかどうかだが
(散兵で騎兵は阻止不能だろうが
 精鋭兵の組んだ方陣の中に
 雑兵が入ったと言う事は
 無いのかどうかだが
 方陣も余り中に人を入れると
 機動性が低下すると言う事は
 無いのかだろうし
 砲撃にも脆く成る訳だろうか)





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参考文献:napoleon osprey





ナポレオン
napoleon

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