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ビスマルク外交と言うのは何処迄完全だったか 

http://www5c.biglobe.ne.jp/~paruwees/Histoly_105_.html
>ところが、そういったビスマルクの心配
>は、実のところ杞憂にすぎませんでした。
>      ロシアのアレクサンドル 2世
>は、露土戦争の後に活発になってきた、革
>命派への対処に
>      手を焼いており ”フラン
>ス” という革命伝統の国には嫌悪を感じ
>ていた為でした。

>ところがこの同盟には、オーストリアがま
>ったく乗り気ではありませんでした。
>      なぜならば、オーストリアは>ドイツとの同盟、およびイギリスとの友好
>関係によって
      十分にロシアの脅威から守られ
>ている。今ロシアとの同盟に加入しようも
>のならば
      バルカンでの積極政策を追及す
>る機会を失い、イギリスとの友好関係に
>      亀裂を生じさせる結果を招く
>ことにもなりかねない。ところが 1880年4
>月
>      イギリスの内閣交代が、オー
>ストリアの態度を大きく変化させることに
>なります。

>   <3 グラッドストン>
>       1880年4月、その強硬外交>と放漫財政の嫌われたディズレイリ内閣に
>かわって
>      自由党による第 2次グラッド
>ストン内閣 (1880~85) が成立しまし
>た。
>      その選挙演説の中でグラッド
>ストンは次のように公言しました。
>      「地図の上に指を置いて、こ
>こでオーストリアが善いことをしたと言え
>るような地点は
>       地図上に一点もない。ま
>た、オーストリアが善いことをしたと言う
>実例は 1つもない」

>       この発言に当然オーストリ
>アは激怒。この発言を聞いたビスマルク
>は、グラッドストンを
>      「気ちがいの教授」 と評
>し、そのような言葉を平気で公言する気ち
>がいに
>      イギリスが支配されている限
>り、これと結びついているのは妥当でな
>い・・・と
>      オーストリアに忠告。オース
>トリアは、イギリスから離れていきます。

三帝協商が結べたのは
運が良かったと言う事は無いのかだが


>       そして次に当然ビスマルク
>が打つ手というのが外交で、自身が媒介者
>となって
>      1887年3月、英・墺・伊の間
>に 「地中海協定」 という協力関係を成
>立させました。
>      この時のイギリスは 「気ち
>がい教授」 のグラッドストン内閣ではな
>く、ドイツに対して
>      友好的な、ソールズベリ内
>閣 (第 2次・1886~92) だったことも幸
>いしました。
      更に 5月には、独・墺・伊・ス
>ペインによる、同様の 「地中海協定」 
>を成立させます。

>       更にビスマルクにとって幸>いなことに、フランスではブーランジェ将
>軍が陸軍大臣の位を
      追われ、ロシアのアレクサンド
>ル 3世は、三帝協商の期限満了に伴って
>      代わりとなる再保障条約を結
>ぶことに、密かに同意を与えました。

ブーランジェが残っていたら
可也拙かったと言う事は無いのかだが
独も仏露と同時に戦争するのは困難なら
アルザス・ロレーヌ返還と言う事迄
考えた可能性も有るかも知れぬが
此れは世論が許すのかだが
ロシアの為に英やオーストリアとの同盟を解消する等して
ロシアと仏を分断したと言う可能性も
有る訳だろうか


ブーランジェがクーデーター決行を
躊躇った理由と言うのが良く分からないが
http://www.h2.dion.ne.jp/~mogiseka/lecture/bismark_age.htm
>①ブーランジェ事件は、普仏戦争の英雄ブ
>ーランジェ将軍をクーデタで大統領に、と
>いう陰謀です。クーデタ直前に計画が漏
>れ、肝心のブーランジェ本人が優柔不断
>で、逮捕を恐れて国外へ亡命してしまった
>ため、失敗に終わりました。

計画が漏れていたのが理由なのだろうか

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ビスマルクがロシア攻撃を避けた理由は 

独も普仏戦争勝利直後にロシアを叩いていれば
どう成ったのかだが
米英には海軍力の差で流石に
勝てなかったと言う事かも知れぬが
ビスマルクは何故ロシア戦は
避けたのだろうか


http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1127387943/
>忘ケンに突っ込むのはあれだが
>当時のドイツはプロシア以外の邦国は貧乏
>農業国の集団で
>ロシアと戦えるほど充実している訳じゃな
>いぞ
>いや、そもそも対仏戦ならいざしらず無謀
>なロシア戦ともなれば
>ついてくる国が無い。

>当時のロシアは日露戦争前の化けの皮がは
>がれる前のロシアだし
>普通喧嘩売らんわ

まあしかし
普仏戦争直前のクリミア戦争等を見れば
全く太刀打ち出来ぬ様な存在と
見て居たのかどうかだが
英仏共可也苦戦はしただろうが
敗れた訳では無い訳だろうし
気候にやられた面も大きいなら
鉄道網も有るドイツ近辺で戦えば
タンネンベルグ戦の再現は
無理だったのかだが


領土を獲得しても
社会主義者等の反乱を米英等の策動で
起こされるリスクも
考えたと言う事かも知れぬが
ビスマルクの様な外交は他の者は出来ぬだろうし
ロシア・仏・オーストリアは
征服した方が良かったと言う事は無いのかだが

ビスマルクも普仏戦争は普墺戦争の段階で不可避と考えて居たか 

http://www.geocities.jp/asamayamanobore/sonotanomatome/dora/emusudenpoujiken.html
>戦前のビアリッツの密約を反故にされたた
>め、反プロイセン感情は高まり、
>カトリックの多い南ドイツ諸国への離反工
>作を行い、統一妨害に動く。

此れは最初から反故にする気であり
ビスマルクも普墺戦争の段階で普仏戦争は
覚悟していたと言う事かも知れぬし
仏のドイツ統一の介入は
不可避と考えて居たと言う事だろうし
オーストリアを叩いたのも
ドイツ統一への介入を阻止する為だろうが
(何れの戦いも統一への介入を阻止すると同時に
 特に南部との一体感を高める狙いが有った訳だろうか)
仏がこの段階で戦争を仕掛けて来た場合は
即座に対処する準備は
出来て居たのかだが


レオポルト公のスペイン王位継承辞退は
周辺国のプロイセン敵視を恐れて
ビスマルクも認めて居たと言う
事だろうが
仏が恒久的辞退を要求して来る事も
読んで居り
此れを開戦の口実とする事も
前から決まって居たのだろうか
(仮に此れが無く共
 開戦の口実等幾らでも
 作れたと言う事かも知れぬが)


ドイツ統一を考えた時点で
墺仏との戦争は
墺仏を外交的に抑えられぬ限り不可避と
考えて居た訳だろうか


オーストリア・ドイツが統合出来無かったのは
プロイセン王家とオーストリアの対立も
無論有るだろうが
両地域の宗教の差
(プロイセンはプロテスタント
 オーストリアはカトリックが多い訳だろうか)
と言うのも有る訳だろうか

独も南北戦争以後の米同様に保護主義で近代化したと言う事の様だが 

http://www.h2.dion.ne.jp/~mogiseka/lecture/bismark_age.htm
>最後は、産業資本家。自由貿易か、保護貿易か、この対立でアメリカでは南北戦争が起こったほどですから、深刻な問題です。
>しかし、時はビスマルクに味方しました。クリミア戦争に敗れたロシアが近代化に乗り出したころです。機械を買うにもカネがないロシア、穀物を売って資金を得ようと考え、
>ヨーロッパ向けに安い穀物を大量に輸出してきます。あわてたプロイセンの地主たち、保護貿易主義に転じ、ここに保護関税法が成立します。資本家・地主が和解して、この2つの勢力がビスマルク政権を支える車の両輪となり、「鉄と穀物の同盟」と呼ばれます。

独は保護主義で近代化したと言う事かも知れぬし
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%88%A6%E4%BA%89
米も同様と言う事かも知れぬが
ロシアが安い穀物を売って来なかったら
ビスマルクはどうしたのだろうか
(独で南北戦争の様な事が
 起き得たのかどうかだが
 対外戦争をする等して不満をそらした可能性も
 有るのだろうか)

ビスマルクも保護主義での近代化と言うのは
時期的に米北部を参考としたと言う事は
無いのかだが

http://yuyuu.iza.ne.jp/blog/entry/48417/
現代でも保護主義が米の北東部には
有る訳だろうが
彼等は民主党を支持しているのだろうか


http://homepage3.nifty.com/~bbf/11culture.html
>賢者は歴史に学び、愚者は体験に学ぶ

と言うのは
ビスマルクの言葉だったと言う事を
忘れていたが

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1411465959
>ドイツの統一が「鉄と血」のみによって成し遂げられるという国際政治の非情さを愚者は経験によってしか、理解できないだろう、という意味である。

と言う様な
意味だった訳だろうか


http://www.h2.dion.ne.jp/~mogiseka/lecture/bismark_age.htm

>ただし、中央党(議会中央に席があったためこう呼ぶ)の政治活動は認め、参政権も認めます。中央党はドイツの有力政党として存続し、
>第二次大戦後はキリスト教民主同盟(CDU)と改名しました。2005年にドイツ初の女性首相となったメルケル首相は、CDUの政治家です。

CDUと言うのは
今はカトリック系では無い訳だろうか

>そこでビスマルクは、ベルリン会議を開催し(1878.6)、「誠実な仲買人」と称して調停に乗り出した。しかし、ビスマルクはイギリス・オーストリアの主張を支持し、サン=ステファノ条約を破棄して新たにベルリン条約を結び(1878.7)、
>ロシアの南下政策を阻止したので、ロシアはドイツから離れて三帝同盟は事実上有名無実の状態となった。
>ビスマルクは独墺同盟(1879.10)を結んでロシアからの攻撃に対して相互に全面的な援助を約束する一方で、あくまでロシアを陣営内に留めてフランスを孤立させようと努力し、
>1881年6月に三帝同盟を復活させ、新三帝同盟(1887年まで存続)を締結した。
>さらに1882年5月には、チュニジアをフランスに奪われたことに不満を持つイタリアをさそい、ドイツ・オーストリア・イタリア間で三国同盟(1915年まで存続)を成立させた。
>1885年から87年にロシアがブルガリアに進出し、オーストリアとロシアの対立が激化して新三帝同盟が崩壊すると、ビスマルクは1887年6月にロシアとの間で再保障条約(二重保障条約)を結んだ。
>この条約はバルカンにおける国境の現状維持を主内容とし、条約国の一方が他から攻撃された場合は中立を守ることを約した条約であったが、ビスマルクは独墺同盟があるためにオーストリアに漏れることを恐れて秘密条約とした。
>こうして1887年頃には、ドイツはオーストリア・ロシア・イタリアだけでなくイギリスとも親しい関係にあり、フランスはヨーロッパで完全に孤立していた。しかし。このビスマルク体制は、1890年のビスマルク辞任によって急速に崩れ、
>翌1891年には露仏同盟(1894年に完成)が結ばれてビスマルクが最も警戒していた状況となり、ヨーロッパにおける国際関係は大きく変化していくことになる。

この辺りの外交手腕は
矢張りビスマルク以外には無理な物だった訳だろうか


http://f11.aaa.livedoor.jp/~menou/dream/study03.htm
>三帝同盟の解体は当然なんだが、実はビスマルクはこれまた驚くべき手腕を発揮し、1881年、もう一度この三国で新三帝同盟(三帝協商)を結ぶんだ。

何故新三帝同盟が結べたのかと言うのが
不可解だが
ビスマルクはどの様な条件を
出したのだろうか
(再保障条約と同様と言う事では
 恐らく無い訳だろうが)


http://licht22.jugem.jp/?eid=653
>そのあと同じく1887年、新三帝同盟誕生。
>その頃露さんは英と仲良くしかけてたんだけど、
>上手いこといかなくなって仲間が欲しくてこっちきたというわけです。

81年の間違いだろうが
新三帝同盟は
ビスマルクの手腕に拠る物では
無いと言う事なのかどうかだが

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