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歳三さんの刀の握り癖 

http://ameblo.jp/hogyoku/entry-10026712164.html
>昔は、左右の手の間隔を開けずに持つことは
>結構ポピュラーだったのだとか。

>そしてもうひとつの理由とは…
>ここが肝心ですよ!皆さん!!
>・短い握りのほうが
> 室内など狭い場所での刀の取り回しがし易い、
> という事実があるのです。

> 京の狭い町屋作りの家屋の中で
> 奮戦していた何とも新選組らしい理由ですね。

>これは、その生徒さんが二つの握りでそれぞれ実演してくださいましたが、
>本当に、柄を短く持った歳三さん握りの方が
>刀を正面に構えた状態から
>頭上にかざし振り下ろすまで、
>刀の動く半径も20センチ近く狭くなり、
>素早く振り下ろせることが一目瞭然でした!!!

屋内戦では短い握りの方が
有効だったと言う事かも知れぬし
野戦でも乱戦ではこの構えを使用して居た可能性は有る訳だろうが
西欧ではこの様な握りの切り替えは
有り得たのかどうかだが


>理由の一つ目は、

>・刀の中には茎(なかご)の短いものが少なからずあり、
> それが激しい衝撃を受けたときに
> 柄が割れて刀身が飛び出してしまうのを防ぐ為に
> 柄を短く持つことがあった。
> (古刀など刀身や茎を詰めて仕立て直して
> 先祖代々伝えていくこともありましたので。)

茎部分が短い刀は
基本的に乱戦専用と言う事なのか
どうかだが


馬上で斬り合う場合も間合いは短いかも知れぬし
刀は短く持っていたと言う事は無いのかだが

http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/e12.htm
蒙古襲来絵詞でも船上で騎馬武者は太刀を短く構えているが
此れは船上での乱戦に備えた構えなのかだが
右端の大薙刀を持っている兵は袖が有るが
騎馬武者なのかどうかだが
(下馬戦闘時は騎馬武者も大薙刀を利用する場合も
 有る訳だろうか)


http://www.toride.com/~canossa/pic/bnf_f139.htm
中央にポールアックスを短く持っている騎士が居るが
此れも馬上での近接戦に備えた構えなのかどうかだが


http://www.toride.com/~canossa/pic/bnf_f354.htm
下馬した兵がバスタードソードを短く持っているが
此れも乱戦用の構えなのかどうかだが


大薙刀を短く持っている例と言うのは
蒙古襲来絵詞では見ないが
http://learn.bowdoin.edu/heijiscroll/viewer.html
上の中央下辺りではやや短く薙刀を持った兵が居るが
此れは刃の部分が小さいから
大薙刀なのかどうかだが
此れは建物から出た直後の兵に見えるから
屋内での乱戦に備えて
薙刀を短く構えて居ると言う事かも知れぬが


http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/e12.htm
上の場合は船上だが薙刀を短くは
構えていない訳だろうか


http://www.medievaltymes.com/courtyard/images/maciejowski/leaf3/otm3va.gif
上は斧を割りに短く持っている様に見えるが
どうなのかだが

http://www.medievaltymes.com/courtyard/images/maciejowski/leaf10/otm10va&b.gif
上の両手用の刀は一応グレイブと言う事だろうが
此れも短く構えている訳だろうか

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長崎で国内初の列福式 江戸期の殉教188人「福者」に 

http://www.nikkei.co.jp/news/main/im20081124SSXKB017524112008.html
まあ彼等がスペイン等の日本侵略の尖兵として
利用されていたと言う意見も有るだろうし
仏教寺院等を破壊したと言う様な事は
考慮されているのかどうかだが

日本の清への大砲輸出 

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/5215/fubu/sin.htm
>清による3次にわたる朝鮮侵攻をへて、清軍内部では火器の重要さが認識されていた。清は膨大な大砲を日本より入手し、攻城戦は非常に短縮化された。

城を破壊可能な様な重砲を日本が
大量に輸出して居たのかどうかだが
大阪冬の陣等で使われたフランキ砲なのかどうかだが
日本の大砲が無ければ清は意外と兵力は無いし
攻城戦ではヌルハチが死亡する等可也損害を受けているから
勝てたのかどうかだが


http://72.14.235.104/search?q=cache:pdmpWyWtgtwJ:hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1170948109/93-193+%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%86%AC%E3%81%AE%E9%99%A3%E3%80%80%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%AA%E3%83%B3&hl=ja&ct=clnk&cd=2&gl=jp&lr=lang_ja
>イギリスから弾丸重量18ポンドのカルバリン砲4門
>5ポンドのセーカー砲1門に加え、
>オランダから33~41ポンドのカノン砲12門を輸入して使ったそうだ

41ポンド=18kg程度だろうが
此れでも日本城の城壁を崩せたのか
どうかだが
5ポンド(2kg)等の砲は
銃眼部分を破壊するのが精精だったと言う事は無いのかだが
41ポンド程度の砲が清に輸出されて居たと言う事は
無いのかだが


http://72.14.235.104/search?q=cache:plLEYz54aGoJ:hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1178354527/170n-+%E8%8A%9D%E8%BE%BB%E7%A0%B2&hl=ja&ct=clnk&cd=21&gl=jp&lr=lang_ja
>ただ、日本も秀吉の小田原攻めでは小型仏郎機が多いだろうが1000門以上が集まったそうだ。
>洋式砲の導入も行なっており大阪冬の陣で徳川方が
>オランダ製カノン砲・カルバリン砲・セーカー砲十数門を含めた305門の砲撃を行なっている。
>大半は家康が国友に1,000門近く発注した芝辻砲らしいが。

清に輸出されたのは
http://www.geocities.jp/m_t0406/ohdutunituite.html
>口径9.5cm 砲身313cm 砲弾1100匁 鉄鋼製 前装式
> 1609年、徳川家康が堺の鉄砲鍛冶・芝辻理右衛門助延に命じて製造させたもので、大阪冬
>の陣で使用されたそうです。

上の様な砲弾は4kg程度の芝辻砲だったと言う事は無いのかだが
此れで城に対抗出来たのか
どうかだが
フランキより精度は高いから
城の砲台や銃眼部分を破壊するのには
役に立ったと言う可能性も有る訳だろうか

清軍に日本軍は勝てたか 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%95%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
>後金軍は火器への対策として戦場で下馬した
>兵士が接近して塹壕を突破し、その後に騎兵
>が突撃をかけるという戦法を編み出してお
>り、この戦いでもその作戦を取ろうとした

明軍も塹壕は一応使用していた訳だろうが
騎兵を阻止出来る深さの物では無かったのだろうか
(下馬した歩兵の突撃を火器で阻止出来無かったのは
 手銃やフランキの精度が低い故だったと言う
 事だろうか)


>続いて潘宗顔の陣を攻撃した後金軍は、下馬
>した兵によって敵の戦車を排除した後、騎兵
>の突撃を行い、潘宗顔も壊走させた。馬林・
>潘宗顔の敗報を聞いたイェヘの援軍は後金軍
>との戦いを放棄し、自国に撤退した。
 
戦車も陣地全周を覆っていたのかも知れぬが
歩兵に排除されて居る訳だろうか
(テルシオの様に
 騎兵を阻止出来る程深い塹壕でも
 掘れば良かったと言う事かも知れぬが)


>朝鮮軍の姜弘立は鳥銃(日本式鉄砲)と長槍
>で前面に防御線を展開してこれを迎え撃った
>が、大風が吹いたことによって火器の発した
>煙が巻き上がり、それに朝鮮軍が視界を奪わ
>れた隙をついて後金軍の騎兵が接近、突撃し
>て前衛を突き破った。

一応長槍での騎兵防御も考えて居た様だが
煙が巻き上がって視界を塞ぐ等と言う様な事が
有るのかだろうし
後方の指揮官は兎も角
前線の銃兵の視界は塞がって居たのかどうかだが
 
http://www.imidiot.com/ja/wiki/%E3%83%8C%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%81.html
>戦闘中に砂塵が舞い上がり、これに乗じて明
>へ奇襲をかけることが出来た事などが幸い
>し、大勝した。これはサルフの戦いと呼ばれる。

砂が舞い上がって視界が塞がれたと言う
可能性も
有る訳だろうか


http://salad.2ch.net/warhis/kako/1006/10068/1006847999.html
>ヌルハチは半数の兵を下馬させて工兵ととし
>て使い戦車の防衛線を突破し、後続の騎兵に
>よって左側中路軍を完全に壊滅させた。

塹壕を火器を避ける為に
塹壕内部に隠れた工兵が埋めた後
騎兵が突入したと言う様な事は
無いのかだが


http://miraikoro.3.pro.tok2.com/study/mekarauroko/jyuhou_to_rekishi02-05.htm
上の長篠の様な土塁・壕を築いても
ヌルハチには通用しなかったのかどうかだが
塹壕が埋められたのは
手銃の精度や発射速度の遅さが
災いしたと言う事も有るかも知れぬが
塹壕の歩兵に対し近接戦に持ち込めば
清軍も弓は使用出来ぬ訳だろうが
歩兵の近接戦能力も明は清に劣っていたと言う
事かも知れぬが


http://www.amazon.co.jp/%E9%BB%84%E5%9C%9F%E3%81%AE%E5%A4%A2%E3%80%88%E7%AC%AC1%E9%83%A8%E3%80%89%E6%98%8E%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E5%85%A5%E3%82%8A-%E4%B8%AD%E5%B6%8C-%E6%AD%A3%E8%8B%B1/dp/4061818201
>17世紀、北方からの韃靼族・清帝国の前に、
>首都北京を追われ、滅亡に瀕する明王朝。鄭
>成功の「抗清復明」に応え、三代将軍・家光
>は、明出兵を決意する。島原の乱より十年、
>野に満つ牢人二万人を集め、陣頭に立つは、
>御三家の若き公子・徳川光国。柳生十兵衛と
>由比正雪を従え、いま動乱の黄土の地へ出帆
>する。

こんな物も有るが


1647時点では実戦を経験した者は
余り残って居ないかも知れぬし
優秀な将軍等が居ても
果たして清に勝てたのかだが

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80
>光圀の学芸振興が「水戸学」を生み出して後
>世に大きな影響を与えた事は高く評価される
>べきであるが、その一方で藩財政の悪化(ひ
>いては領民への負担があり、そのため農民の
>逃散が絶えなかった。一説には光圀時代は年
>貢比率が八公二民の超重税を強いたと言われ
>る)を招き、結果的には「水戸学」が目指し
>た‘愛民’の理想からは逸脱してしまった側
>面も存在する。単純に「名君」として論じる
>事は出来ないのである。

此れでは侵攻しても住民の離反を招き得たと言う
可能性も有る訳だろうが
他の者が司令官に成った可能性も
無論有る訳だろうか


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1
島原の乱では12万投入されて居るが
実戦を1回戦っただけの兵では
何処迄戦力に成るのかどうかだが
白兵戦は兎も角
銃撃だけなら十分行えた可能性も
有る訳だろうか


明に援軍を出すとしたら
徳川光圀等では無く
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E7%B6%B1
島原の乱時の幕府軍総大将の松平信綱が
総司令官に成ったと言う可能性も有るかも知れぬが
彼は内政の為に残して
別の者が司令官に成ったと言う可能性も
有るかも知れぬが


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E5%AE%89%E3%81%AE%E5%A4%89
まあしかし家光の統治がこんな状況で
何処迄援軍は出せたのかだが
浪人を大陸に投入して
消耗させると言う事を
考えた可能性も有る訳だろうか


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E6%B0%8F%E6%94%BF%E6%A8%A9_%28%E5%8F%B0%E6%B9%BE%29
>なお鄭成功は清との戦いに際し、たびたび徳
>川幕府へ軍事的な支援を申し入れていたが、
>当時の情勢から鄭成功の勝利が難しいもので
>あると幕府側に判断され支援は実現しなかった。

もっと速く援軍要請を出していれば
勝算が有ると見做された可能性も
有る訳だろうが
日本人の混血人である鄭成功以外は
日本を危険と見做して
援軍は要請しなかったと言う
事かも知れぬし
鄭成功が実権を握った1650辺りでは
既に明に勝算は無いと見られていた訳だろうか


http://www.iris.dti.ne.jp/~poet/syosai/soturon.htm
>一方、救援要請を受けた日本側ではどうだっ
>たのか。最初の内は幕府でも真剣に討議され
>たようである。たびたびの引用だが寺尾氏の
>記述によれば、徳川御三家も乗り気でごぞっ
>て総大将をかってでたようである。おそらく
>は内外に徳川の権勢をしめし、また国内に置
>いても自己の発言力を高めたいという思惑が
>あったのではないか。家光も内々に承諾して
>いたようだ。事実はっきりとした派兵の計画
>書も残っている*17。また、徳川時代にあっ
>ても大きな勢力を保っていた薩摩島津侯は、
>長く明と親交があったこともあり、兵4万と
>武器、物資を用意しあとは大陸側の使者を待
>つのみ、と言うところまで準備を進めてい
>た。


>一見、国を挙げて旧明軍を援助しようと
>していた日本がなぜ公式には一度たりとも兵
>を送らなかったのか。それは幕府側の内情が
>物語っている。その当時は徳川幕府も興った
>ばかりでまだ盤石とは言える状態ではなかっ
>た。諸藩の配置換え、キリスト教対策やまた
>三代家光公の死去など天下未だ定まらぬ状態
>だった。このような状態では、他国、まして
>や滅んだ国家を手助けする余裕などなかった
>のである。また当時の清は飛ぶ鳥を落とす勢
>いの国で敵に回したくないという思惑もあっ
>た。南京陥落後は幕府も「救援拒否」の意向
>を決め以後は中央に届く前に長崎奉行によっ
>て救援の要請は拒否された

拒否したのは
キリスト教対策が未だ終わって居ないと考えた言う事も
有ったかも知れぬし
島原での抵抗が激しかった事も
相当影響している訳だろうか

10万も兵を割かねば成らなかった様な
島原の乱の様な物が同時多発的にでも起これば
此れに大名等も呼応して
大規模な内乱が起き得ると
考えたと言う事かも知れぬし
矢張りキリスト教対策が援軍を拒否した
最大の理由と言う事は無いのかだが


故に島原の乱が無ければ
浪人を処分すると言う名目も有る訳だろうし
援軍要請に応じていた可能性も有るかも知れぬが


>鉄人とは鉄の甲冑をまとって日本刀を持つ部
>隊である。それらは日本人と日本人のような
>格好をさせた者で構成され常に前線で戦っ
>た。まず、みたこともない武器で挑んでくる
>兵は不気味であったろうし、

鉄人等と言う呼ばれ方をしたと言う事は
明軍の甲冑装備率は余り高くは
無かったと言う事かも知れぬが


http://www.iris.dti.ne.jp/~poet/syosai/soturon.htm
>すこし鉄人に関する記述を引用してみる
>*22。「重さ五百斤(約300キロ)の石獅
>子を抱え上げさせ、それを持ち上げ練兵場を
>一周出来た者五千人を選び、鉄の甲冑、籠
>手、腰当て、頬面などのをまとわせ矢が当た
>っても通らなかった。甲冑は五色に塗られ手
>には太刀を取っていた」また「みる者はこれ
>を”神兵”と呼んだ」恐ろしく強かった事
>が想像できる。また清側の記述でもその鬼
>のような戦いぶりは賞賛を込めて書いてい
>る。この鉄人部隊にはかなり手を焼いていた
>様である。
>清の主力はもちろん騎馬隊であるが、鉄人部
>隊はその鋭い太刀で馬の足を切りまくったの
>で大いに苦戦したようだ。

当世具足に合成弓を止める様な防御力は無いだろうが
白兵戦では手を焼いたと言う事かも知れぬが
刀では無く槍を使用して居たと言う事かも
知れぬが


http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1122789087/
>フロイスの「日本史」で朝鮮で戦った明軍の
>様子が載ってるよ。
>「彼らの鉄砲は、無数の弾丸を放っても一人
>も死ななかった」とか書いてて笑える。

手銃の遠距離での精度と言うのは
ピストル並みと言う事かも知れぬし
フス教徒も至近距離で手銃を放っていた訳だろうし
明の兵も塹壕を埋めている兵に
戦車を盾にして
近距離で手銃を放てばだろうが
戦車の位置が壕から離れていたから
無理だったと言う可能性も
有るだろうか
(或いは戦車を越えようとする敵を阻止する 
 歩兵の戦闘力が低かったと言う事も
 有るかも知れぬが)


騎兵が下馬して突入して来たと言うから
歩兵が此れを阻止するのは難しかったと言う事かも知れぬし
明側も騎兵の援護が必要だったと言う事かも知れぬが


>祖承訓が朝鮮に連れてきた騎兵は重装甲で日
>本の槍や刀が通じなかったらしいが。

>裏に黒鉄をつけた道服のようなものというの
>は恐らく綿甲だろう。


ブリガンダインの様な鉄甲は
騎兵以外でも多用されて居た訳だろうし
此れを刀で切るのは無理だろうが
札鎧であるから打撃は何処迄止まるのかだろうし
管槍では貫通していた可能性も有る訳だろうか

故に他のタイプの綿甲等の鎧は
刀や槍で斬られていたと言う
事かも知れぬが


>およそ二万名の槍兵(ピケーロ)
>と火縄銃手(アルカブセーロ)がラッパと太
>鼓の音にあわせてじつに機敏に行動した。ま
>ず合図と同時に
>進軍隊形をつくり、つぎの合図では密集隊形
>となり、そのつぎの合図では火縄銃隊が本隊
>から散開して
>整然と射撃をおこない、ふたたびもとの位置
>にもどった。これが終了すると槍隊が散開し
>てまことに巧妙に

>目標に襲いかかった。その有様を見てエスパ
>ニャ人たちは、この軍隊が世界のどの軍隊よ
>りも優秀であり、
>もしもかれらの士気が旺盛で、その訓練と兵
>員数と同様に優っているならば、容易に全世
>界を征服する
>ことができるであろう、とおもったほどであ
>る。

明軍も銃の精度は兎も角槍兵は
訓練されて居たと言う事かも知れぬが


日本刀で分厚い雑誌を切っている動画が
何処かに有っただろうし
綿甲もクリーンヒットすれば
切れると言う事かも知れぬが


http://depts.washington.edu/silkroad/museums/ubhist/qing.html
モンゴルや清等の鎧の
ブーツの中にも札鎧は一応
有った様だが
(明もこのタイプの鎧は
 用いて居た訳だろうが)
打撃には脆いタイプの物だろうか


http://www3.uakron.edu/worldciv/china/MVC-753S.JPG
胴体や脚等にスペースを設けているのは
矢を防ぐ為だろうが
胸部にはスペースは無い訳だろうか
(銃弾相手にスペースを設けても
 余り効果は無いかも知れぬが)


http://homepage2.nifty.com/kousyuryu-kisya/kachukishakou/ss04.html
胴体或いは頭部は
大鎧や袖付きの胴丸の方が
頭部や胴体とのスペースを考えれば
防御力は高いかも知れぬが


http://www3.uakron.edu/worldciv/china/MVC-753S.JPG
当世具足も胴丸よりは
機動力重視の鎧だろうし
手足の防御は篠や鎖を用いて
軽量化されて居る訳だろうから
防御力は上の鎧の方が有るだろうが
(胴体や兜・袖部に関しては
 当世具足の方が防御力は
 打撃に対しては上だろうが)
上の鎧の重量と言うのは
可也の物なのだろうか
(或いは可也薄い鉄を用いて居る可能性も
 有る訳だろうか)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%A1%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BC
所謂ラメラーアーマよりは
ブリガンダインの方が穴は空いて居ないので
槍は貫通し難いだろうが
(まあ只貫通せず共打撃でダメージは 
 可也受けるかも知れぬし
 プレートや桶側胴の様に
 板を一体化した上で滑らせると言う事も
 必用である訳だろうか)
ブリガンダインの原型は
モンゴルが考えたのかどうかだが
満州族等の可能性も有るのだろうか


http://kagiya.rakurakuhp.net/i_216531.htm
>極端にいえば日本での「長柄鑓の役割」と
>は、技術のいらない「弓」であり、消耗しな
>い「矢」であったわけです。ですから、持ち
>運べる限り長ければ長いほど良いことになり
>ます。それは投擲兵器の代替物だからです。
>殺傷できれば最善でしょうが、無理に敵兵を
>殺傷する必要などありません。敵に面を上げ
>させず煩がられ隊伍を乱し戦列を崩すことが
>できればよいのです。敵を突き殺す必要など
>は更々ありません。つまり、長柄鑓は連発拳
>銃(ピストル)と同じ役割を果たしていたわ
>けです。そうなりましたら、直後に控えた下
>馬した武士の持鑓隊(竜騎兵)が、足軽長柄
>鑓隊を超越して突撃して白兵戦に及ぶわけで
>す。

パイク兵で敵を崩してから
精鋭のハルバード兵が突入する
スイス傭兵の様な戦術だったと言う事だろうか


>鑓足軽までも羽織だけであるということは、
>武将たちが鑓や弾丸から身を守るためにまと
>った当世具足とは異なります。当世具足は胴
>丸が変化したもので、槍の防禦に重点をおい
>て作られていますが、武士の主要武器が弓矢>から長刀などを経て鑓に変わったことによる
>ものです。

鉄砲足軽・槍足軽は陣笠しか無かったのかだが
騎馬武者は流石に装甲は装備して居るだろうが
徒歩武者はどうだったのだろうか
(鉄砲の射手や弓の射手等の
 高度な技術を持った人間も
 装甲は有った可能性は有るだうか)


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E8%BB%BD
>戦国期の足軽は非常に重装備であり、大型の
>手盾をもたないことを除けば重装歩兵とも比
>較できる装備を整えていた(ただし、後期に
>なると一部足軽は足軽胴を着用せず、代わり
>に羽織を用いるようになる)。

足軽が軽装化されたのは
後期と言う事だろうし
全部が軽装化された訳でも
無い訳だろうか

世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略号外 

http://klingon.blog87.fc2.com/blog-entry-225.html#comment

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%AD%9D%E9%AB%98
>しかし、本気で天下を取ろうとしたのであれば、息子の長政と綿密な打ち合わせが必要であり、それをしなかったのは如水の手腕を考えれば手落ちというより不審である。そのため、天下を狙う野望を持っていたというのは見せかけで、如水は家康に脅威を感じさせ、一方で息子の長政が家康に忠誠を尽くすことにより、黒田家の存続と繁栄を狙った深謀遠慮であるという説もある

黒田如水は天下を取ろうと言う意志が
そもそも無かったと言う
意見も有る訳だろうか



>2.関が原の戦い後、如水が清正・毛利・島津・秀頼を纏め上げ、西軍参謀のような形でリターンマッチを家康に挑む事が可能だったか

家康を豊臣に対する反逆者等として
上杉も合わせれば
勝算は無かったのかどうかだが
毛利は黒田に味方したのか
どうかだが



>3.そもそも如水が長政と示し合わせ、家康を孤立させる策をとっていたらどうなったか

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%AD%9D%E9%AB%98
>嫡男・長政は家康の養女を正室として迎えていたことから、秀吉の死去前後から家康に与し、豊臣恩顧の大名を多く家康方に引き込み、

これでは中々
調略は困難かも知れぬが

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%B0%E9%99%A2
>従来の通説や歴史小説では、関ヶ原合戦では東軍(いわゆる武断派)のために動いたとされてきていたが、近年の研究では石田三成らと親しく(三成の三女・辰を養女としている)、関ヶ原の合戦時にも西軍寄りの姿勢を取っていた可能性が指摘されている。

北政所は東軍の為には動いていなかったと言うから
北政所等を上手く利用すれば
調略は不能だったのかどうかだが



>4.如水が大友宗麟のように、スペインと組んでいたらどうなっていたか

西軍とスペインと組んで戦えば
更に有利だったと言う
事かも知れぬが



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%B7%A6%E8%BF%91
>しかし、その夜に島津義弘・小西行長らと共に提案した夜襲は、またもや三成に受け入れられずに終わった。(夜襲はそもそも進言されていないという説もある。そもそも夜襲を掛けるタイミングとしてはうってつけでありすぎ、逆に見破られる公算も高かった状況である。百戦錬磨の猛将が提案するにしては、多少お粗末な感も拭えない。また、夜襲策の出典自体「日本戦史」(旧日本軍参謀本部編)であり、信憑性は低い)


夜襲をすれば此れが読まれていたとしても
島津が参戦し
西軍が勝利した等と言う意見も有っただろうが
夜襲の献策自体が事実では無いと言う
事なのだろうか



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E5%90%88%E6%88%A6
>小早川秀秋隊は、大谷吉継隊右翼を攻撃する。吉継は秀秋の裏切りを予測して温存していた500の直属兵で迎撃し、


>ところが、藤堂高虎などの内応策によってそれまで模様眺めをしていた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱らの西軍諸隊も小早川軍に呼応して東軍に寝返る。予測し得なかった四隊の裏切りで戦局は一変する。


小早川は兎も角脇坂等の裏切りは
読めなかったと言う事なのだろうか
(此れも読んでいれば
 兵の配置を変更する等して
 勝利出来たと言う可能性も
 有る訳だろうか)

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