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2017.10

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蔚山城攻防戦では明・朝鮮軍が寒さでやられたと言うが 

http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/army/1208168005
>現住農民が冬を越せるぐらい、日本軍も越せたろうよ。
>そして、何で蔚山へ攻め寄せた明人と朝鮮人は凍えた
>か考えよう?

日本軍以上の防寒装備は有る筈だが
何故やられたのかだが
仮設小屋や
テント等は使っていたのだろうか

日本軍は蔚山城の建設作業員が防寒用に入る
仮設小屋を利用して
寒さを凌いでいたと言う可能性も有る訳だろうが
薪の備蓄は多少は有っただろうが
足りたのかどうかだが


明・朝鮮軍も日本軍と異なり防寒用の小屋が無かったから
やられたと言う可能性も有るだろうが
テント位は無かったのかどうかだが
テントでは小屋に比べ防寒能力が
低かったという事かも知れぬし
数も有ったのかどうかだが


http://blogs.dion.ne.jp/sekisindho/archives/2932296.html
>「典韋」の印象深いのは、上述のような武勇にもあるのですが、一番心引かれるのは曹操の護衛をまっとうするその態度にあります。
>なにしろ一日中曹操の側に侍立し、夜も自分の寝所に行くことはまれで、曹操の天幕の近くで寝て、無駄なことは喋らず、自分を認めてくれた曹操に対し、その自信と誇りだけで忠節を尽くした点に興味をおぼえるわけです。

と有るから
明軍は天幕を利用していた可能性も有る訳だろうか


明・朝鮮軍も蔚山城付近の市街地に駐留して
寒さを凌ぐと言うのは
無理だったのかどうかだが


http://blog.goo.ne.jp/morimorikids/e/2612d85aca2537cc988d35f7f59b078e
>上杉謙信は、たとえ一夜の野陣でも陣小屋を造らせたといいます。柵や奥番衆により防御された陣の中央に大将と近臣の居所があり、
>その周りに足軽、中間などの下級武士団が取り囲む構造になっていました。斎場山は、南北が急峻な斜面なので防御がし易かったと思います。
>陣場平はそれに比べるとより強固に周りを固める必要があったと思われます。

>小幡景憲彩色の『河中島合戰圖』には、陣場平辺りに、謙信公御陣所として立派な社殿のような建物が七つほど描かれています。当時の戦では、陣城、或いは陣小屋を設営するのが常道だったそうで、
>材料も運んだそうですが、また一方で陣小屋や陣城を造るために、乱取りが行われたわけです。時には地元の農民の家を壊し、それを陣小屋の材料にするわけです。

日本軍は野戦では陣小屋を利用していた様だが
全兵士が入れる様な物だったのかどうかだが


http://toshi1.civil.saga-u.ac.jp/mishiman/03_lecture/T_HistoryUD/9_Edo/9_print1.pdf
上を見る限り一応足軽用の陣小屋も有る様だが
殆ど板と柱を組み合わせただけの
軽量な代物である訳だろうが
テントよりは恐らく防寒性は有る訳だろうか



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%9A%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
>突貫工事の後、40日程で蔚山倭城の完成が目前になると、築城が担当であった毛利秀元らは兵糧・武具類を釜山に輸送し一旦退去。浅野幸長・太田一吉らがわずか3,000の兵で城外の仮営に駐屯していた。

この施設は5万の明・朝鮮軍は3000人しか入れないので
余り使えなかったと言う事かも知れぬが
城外に作業員が泊まる家屋は無かったのかどうかだが

この3000の一部が作業員を兼ねていた可能性も
有る訳だろうが
完成が目前だったとしても
彼等しか作業には使わなかったのかどうかだが

作業員は城外の家屋のみを利用し
城内の家屋は作業員が利用する物では無く
後で兵士が利用する物が一部完成していた可能性は有るだろうが
3000人分は有ったのかどうかだが

城外・城内の小屋・建築物と言うのも
日本本土で使われる物より
防寒は考慮していた可能性は無いのか
どうかだが

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文禄の役での日本側の妥当な侵攻ルートは 

寒さで日本軍がやられたと言う様な記述も多いが
西日本でさえ冬場は可也寒い時期も有るだろうから
果たしてどうなのかだが

まあしかし朝鮮戦争でも米軍が寒さに苦戦しているから
明軍の様な上着や
ブーツが無いと厳しかったと言う可能性は有るだろうが
朝鮮半島北部には移動せず
日本軍侵攻ルート1
上の様なルートで侵攻して極力北部での移動を
避けると言う方向も有った訳だろうし
平壌辺り迄朝鮮半島を完全に制圧した後
山東半島から中国本土に上陸
北京を目指すと言う方向も有った訳だろうか
(朝鮮半島西岸・渤海辺りの制海権は
 必要である訳だろうか)


現実的に制海権を確保可能なのかだが
村上水軍等の焙烙火矢で鉄甲船装備前の信長の九鬼水軍の様に
朝鮮水軍が炎上と言う事は有ったのかどうかだが
巨済島海戦で朝鮮水軍の船が多数燃えたと言う記述が有ったが
此れは焙烙火矢に拠る物では無かったのかだろうし
巨済島海戦や露梁海戦等の
大艦隊同士の戦いでは日本水軍は敗れていないし
小型の大筒から発射する
高精度の焙烙火矢で明・朝鮮水軍は
大砲の射程外から一方的にやられていたと言う可能性も
有る訳だろうし
小規模な艦隊が敗れたのは
奇襲を受けたか或いは
焙烙火矢を装備していない艦隊が
偵察時にやられたと言う事かも知れぬが


http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse432.html
鳴梁海戦は日本軍主力が来た後は
李舜臣は撤退しているから
大艦隊同士の海戦では無い訳だろうか


文禄の役も李舜臣に補給を絶たれたから
停戦したのでは無いと言う事かも知れぬし
日本側の前線の兵力を考えれば
大艦隊を組んでの補給が必要だったかも知れぬし
偵察用の艦隊とは兎も角
補給用の大艦隊との戦いは無いと言う事だろうし
偵察部隊が数回やられた程度で日本側が
前線への補給を諦めるのかだろうし
停戦したのは小西行長が明と戦う気が無かったからなのか
或いは明軍の兵糧焼き討ちにより
船舶での補給を待たずに後退せざる負えなかったと言う
事かも知れぬし
この様な状態で前線に留まって
確実に来る当ての無い
船舶での補給を待つのは危険だったと言う事かも知れぬが
後退して兵糧を確保した後再戦は十分
可能だった訳だろうから
小西行長の意向が矢張り大きかった訳だろうか

毛利水軍の焙烙火矢で信長の九鬼水軍が敗れたと言うが 

文禄慶長の役で
朝鮮水軍に対して焙烙火矢は利用されなかったのかだろうし
板屋船には鉄甲は無く
亀甲船も側面には鉄甲は無い訳だろうから
九鬼水軍の様に後期には燃やされて敗れたと言う可能性も
有る訳だろうか


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%A2%E7%81%AB%E8%96%AC
ビザンチンのギリシャ火薬でイスラム艦隊が
やられているから
火炎攻撃は厄介だったと言う事は無いのかだが
焙烙火矢はギリシャ火薬程の威力は
有ったのかどうかだが


http://209.85.175.104/search?q=cache:RFuv1UrEEHoJ:hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1158480765/1-100+%E3%80%90%E6%B5%B7%E8%B3%8A%E3%80%91%E3%80%80%E6%B0%B4%E8%BB%8D%E3%82%B9%E3%83%AC%E3%80%80%E3%80%90%E5%AE%89%E5%AE%85%E8%88%B9%E3%80%91&hl=ja&ct=clnk&cd=1&gl=jp&lr=lang_ja
>確かに仰るとおりですが、大安宅の船首に搭載された三
>門の一貫目大筒よりも、側舷の大鉄砲によるが集中射
>撃が
>効果的であったものと考えます。信長公記にも「大鉄砲
>を一度に撃ち、敵船を打ち崩した」とある。
>鉄砲の集中運用は75年の長篠で、大鉄砲の破壊力は7
>6年の長島願証寺で既に実証済みですから織田水軍が
>それを
>78年の木津川で応用したとしても何の不思議はありません。

大鉄砲と言うのは板屋船の板は
打ち抜けたのかどうかだが
精度は固定式では無いから
大砲よりは高い訳だろうか
大鉄砲等鉄甲船が出る前にも投入されているだろうから
此れだけで焙烙火矢を装備した艦隊には勝てたのかだろうし
焙烙火矢を防御出来る装甲が無ければ
やられていたと言う可能性も有るだろうし
完全な防火装甲の無い板屋船や亀甲船では
大砲が有ろうと焙烙火矢でやられていたと言う可能性も
有る訳だろうか

板屋船・亀甲船も大鉄砲で遠距離からダメージを受けた後
焙烙火矢で燃やされたと言う可能性も
有る訳だろうか

秀吉による朝鮮征伐の軍事分析PartⅥ 

http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/army/1208168005
>日本がフィリピンを攻撃していたら、日本とスペインで戦
>争になったかも。
>果たしてどちらが勝つかな?

平底で竜骨も無い日本船の外洋航行能力に問題が有るから
フィリピン攻略は無理と言う意見も有るだろうが


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%AF_(%E8%88%B9)
>船体中央を支える構造材である竜骨(キール)が無く、船体が多数の水密隔壁で区切られている。

>400総トン程度で耐波性に優れた大型の外洋航行用のものもある。

ジャンク船も竜骨は無いが
外洋航行能力は無いのかどうかだが
日本船も同様に水密隔壁が有るから竜骨等無く共
構造は強固だったと言う事は無いのかだが


朱印船もフィリピン迄行っていた訳だろうが
http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse023.html
>これを裏付けるように、朱印船に雇われて渡航した朝鮮
>人が「日本船は小さくて大洋を航海できないので、180人
>乗りのジャンクを買い入れ、中国人の船長を雇って航海
>した」と述べている。

平底の船でも大型艦なら
フィリピン迄は行けなかったのかどうかだが


> 朱印船の積載量は、小さいもので薩摩の島津氏が福
>州で購入した12万斤(きん)積(480石、載貨重量72トン)
>から、因幡の亀井氏がシャムから購入した80万斤(きん)
>積(3200石、載貨重量480トン)までかなりの差があっ
>た。

積載量72トン程度の物でも
外洋航行能力は有ったのかどうかだが


>現在、10点ほどの朱印船の絵が残されているが、こうし
>たものを見ても「日本前(にほんまえ)」、あるいは「朱印
>前」と呼ばれた朱印船は、みな中国式のジャンクをベー
>スとして、これに西欧のガレオン船の技術を取り入れ、そ
>れに日本の伝統的技術を加えた折衷形式の船であるこ
>とがわかる。これらは中国やシャムなどで購入された
>が、一部、日本でも造られた。1617年(元和3)、平戸藩
>の重臣佐川信利が平戸で建造したのはその一例であ
>る。

http://www.funenokagakukan.or.jp/sc_02/t/3/wasen/data/B86151.html
此れは上を見る限り平底では無いだろうが
水密隔壁は有るのかどうかだが


http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse023.html
>朱印船とは、「異国渡海朱印状」という渡航証明書を持つ船で、安南(ベトナム)、カンボジア、シャム(タイ)、ルソン(フィリピン)など東南アジア諸国との貿易を許可された船をいうが、
>1604年(慶長9)以後の32年間で356艘を数え、年平均11艘が従事した。船主には西南大名、幕吏、内外の豪商たちがいた。

朱印船は11隻しか無かったと言う事では
無い訳だろうが

http://www.geocities.jp/hatm3jp/052.html
>・朱印船はかなり大きい。普通は長さ36メートル、幅10メ
>ートルの300トンくらいのものが多かった。千石船は100ト
>ン積み。
>・台湾まで15日、ルソンへ20日、トンキンへ30日かかる。


http://www.geocities.jp/archelon_trade/history/history-ships.html
>サンマルティン
>国籍 スペイン進水 1567年/全長 37.3m/全幅 9.3m/排水量 1000t/

西欧のガレオン船も朱印船と全長は大差無いが
積載量に差が有ったと言う事は無いのかだが



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%A6%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%BF%E5%8F%B7
西欧式の船も建造されている訳だろうが
1613以前にもこの様な帆船は
建造可能と言う事かも知れぬし
此れは下手な軍艦より巨大な船だろうが

http://www.teamrenzan.com/archives/writer/tachibana/post_238.html
>江戸湾に係留されていたリーフデ号が沈没すると、船大工としての経験を買われて西洋式の帆船を建造することを要請される。
>伊東の造船所で80トンの帆船を建造(1604年完成)した。次いで120トンの帆船を建造(1607年完成)した。この船は1610年、
>房総の御宿海岸で遭難し地元民に救助された前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロに家康から貸し出され、サン・ブエナ・ベントゥーラ号と名付けられ、イスパニアとの交流を深める要因となった。

この前にも2隻の帆船が建造されている訳だろうから
その気に成れば大量に建造出来た可能性は
有る訳だろうし
この際に大砲も大量に導入出来た可能性は有る訳だろうが
西欧の船には無いと言う水密隔壁等を追加した可能性も
有ったのかどうかだが


当時の大砲と言うのは
アルマダ海戦を見れば分かる様に
余り役に立たなかったと言うし
トラファルガーでさえ白兵戦で決着していると言う事かも知れぬが
西欧軍の白兵戦能力はどうなのかだが

http://www001.upp.so-net.ne.jp/a-sasano/galley.htm
>Andrea Michelli (別名Andrea Vicentino)の描く "La Battaglia di Lepanto"の中央に朱色のガレー船が描かれている3),6)。

上の16世紀末ー17世紀初頭に描かれた
レパントの絵の詳細は

http://www.art-prints-on-demand.com
上でLepantoで検索すれば出て来るだろうが

AKG9IT-1571-10-7-A1-2-1で検索して出て来る絵の
左下には
ツヴァイハンダー或いはバスタードソード
短槍或いはハルバードの様な物を持つ西欧兵が描かれて居るが
長いパイクは無い訳だろうか

盾はこの時点でも何故か
用いられている訳だろうが
海戦で盾は何時頃迄使われたのかどうかだが


http://www.zdrbs.com/japanese/picture/11.html
倭寇図巻に有る様な
上の様な槍を日本側は海戦で多用したと言う事は無いのかだが
3m以上は有る訳だろうし
此れで西欧軍の短槍・ハルバード・剣がやられたと言う可能性は無いのかだが
ツヴァイハンダーで槍が折られたと言う可能性は有るかも知れぬが
野太刀や長巻等で此れに対抗は出来なかったのかどうかだが

16世紀末では日本の足軽は甲冑は無いかも知れぬが
ハーフアーマーを装備した歩兵は西欧には可也居たと言う事かも知れぬが
此れも長槍の攻撃でやられたと言う可能性は無いのか
どうかだが
ツヴァイハンダーを装備した装甲歩兵はどう排除するのかだが
野太刀を持つ騎馬武者で対抗出来たのかどうかだが
ツヴァイハンダーを持った兵を排除した後
長槍で残りの兵は叩くと言う事は可能だったかも知れぬが

刀での乱戦に持ち込まれても
日本側の両手持ちの打刀にカトラスやサーベルで対抗出来たのかだろうし
至近距離での戦いでも脇差や短刀が
有る訳だろうか


西欧軍の近接戦用のピストルと言うのは
厄介だったと言う事は無いのかだが
騎兵以外は此れは持っていたのかどうかだが
重騎兵の3クォーターアーマーも足を槍等で狙えば
倒せたのかどうかだが
3クォーターアーマーと言うのも
銃弾に対抗し胸甲を厚くした影響で
40kg程度有っただろうから
此れで長時間戦闘は可能なのか
どうかだろうし
此れを装備した重騎兵等
スペインには何割居たのかだが


http://w3.shinkigensha.co.jp/book_naiyo/4-915146-23-5p.html
>パイクとはちがった使い方をする武器ですが、形状が似ているために「ハーフ・パイク」と呼ばれるものがあります。2mくらいの柄に比較的小さい鉾先がついており、17世紀中頃、船上での戦闘に便利なため「ボーディング・パイク」などと呼ばれて使用されました。
>ハーフ・パイクはフランスでは「エスポントン(esponton)」、イギリスでは「スポントゥーン(spontoon)」と呼ばれ、士官が部隊の指揮をとるのに使われました。

欧州でも海戦で短槍は利用されている様だが
17世紀中盤以降からと言う事は無いのかだが
アジアでの海戦で槍を使う日本の傭兵や中国兵等に
苦戦したから
パイクを導入したと言う事は無いのか
どうかだが


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%87%E3%83%AC%E3%83%AD
剣と盾を持つロデレロは
整列したテルシオのパイク兵には勝てないと言うが
船上で槍を構えた兵は
テルシオのパイク兵の様に
後列の槍が前に出ているのかだろうし
此れに対してはロデレロの方が
有利だったと言う事は無いのかどうかだが
短槍であるボーディングパイクと言うのも後で出ている訳だろうし
此れは後列の槍は前に出ない訳だろうから
ロデレロは此れにも勝てなかったと言う事は無いのか
どうかだが


http://www001.upp.so-net.ne.jp/a-sasano/galleyphoto.htm
こんな大砲を小型船が受けたら
どう成るのかと言う事は有るだろうが
何処迄当たっていたのかどうかだが


http://www001.upp.so-net.ne.jp/a-sasano/galley.htm
>参考文献2のp87にある記述によれば、先端のいわゆる「衝角」は、本当は衝突して敵船を沈めるものではなく、体当たりして敵船に乗り込むための橋の役割を果たすものだとのこと。

とは言え小型艦なら
沈められたと言う事は無いのかどうかだが
何処迄当たったのかと言う事だが

文禄・慶長の役で明の騎兵に日本軍はどう対抗したか 

http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/army/1188374643/
>うーん、朝鮮出兵で明の騎馬隊と交戦した時は酷く苦戦
>したという話をどこかで見たような……

日本刀で馬を倒したと言う記述も多いから
西欧の様に密集した槍隊形で騎兵を迎撃したのでは無く
散開した備の槍足軽の中に
騎兵が突入して乱戦に成った後で
日本刀を用いて馬を倒したと言う
事かも知れぬし
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99
備も散開しているとは言え
300-1500人の方陣であるから
此れを駆け抜ける前に日本刀で馬をやられると言う事は
十分有り得る訳だろうし
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/5215/fubu/min.htm
>一方、唐代から馬鎧は廃れ、南北朝時代のように10貫以上の重量の鎧で馬を覆って機動力を落とすようなことは無くなった。

当時の明の騎兵の馬に装甲は
無かった訳だろうか


明の騎兵の馬も日本やモンゴルの馬と同様の
小型の馬であり
西欧の騎士の様に槍に馬の体重は乗らないから
衝撃力は低く
突入を受けても即壊走すると言う事は
無かったと言う事かも知れぬし
散開していれば衝撃力をまともに受ける事も
無い訳だろうか


散開した備の機動力を考えれば
騎兵に突入された後に
援軍が来るのも速いと言う事かも知れぬし
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A2%A7%E8%B9%84%E9%A4%A8%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
碧蹄館での包囲成功と言うのも
備の機動力が有っての物と言う事は
無いのかだが
地形や野戦築城で騎兵を防いだと言う例も
有るのかどうかだが


日本軍同士の合戦でも
兵が散開しているなら
乱戦に陥るケースは多かったかも知れぬし
日本刀や脇差・短刀は
以外に重要だったと言う事は無いのかだが

まあしかし散開した最前列が敵に襲撃されている状況なら
後列が間から前に出て援護と言う事は有るかも知れぬし
結果的に密集すると言う可能性は有ると言う事かも知れぬが
乱戦に陥る事も多かったのかどうかだが


http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021025b.html
>では下馬した戦士たちはどのように戦ったのだろう。これに関しては、①の「切っさきをそろゑて」や、④の「鑓長刀を差合て、透もなく」と「すきもなく、鑓長刀にて支えつつ」といった記述から見て、
>下馬した騎馬武者は、密集し集団として戦ったと考えられる。それではこれは何のために行ったのだろうか。それはおそらくは敵騎兵の突撃をくい止めるためである。そもそも騎兵というものは、歩兵の堅固な隊列を突き破る力は無いのであるが、
>それは歩兵の側に、騎兵の突撃を受けても逃げ出すことなく隊形を保持する、規律があればの話である。そしてこの時代の一般の歩兵に、このような能力を期待することはできない。

南北朝時代では下馬した騎馬武者を密集させて
騎馬武者の乗馬突撃の阻止と言うのは
行われて居た様だが
歩兵は密集しては居ないかも知れぬし
室町時代には騎馬武者の乗馬戦闘は廃れ
下馬した騎馬武者を密集させての
乗馬突撃の阻止も行われて居ない訳だろうし
明の騎兵を槍足軽や下馬した騎馬武者を密集させて
阻止すると言う事も
恐らく行われて居ない訳だろうか

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